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1 折り紙との出会い

 

 章は、1911年(明治44年)上三川町の下町で、父團治(だんじ)、母セイの子として、大勢の兄や姉に囲まれ生まれました。

小動物や鳥、虫たちがあたりを飛び交い、近くには魚影の色濃い小川があるなど、緑豊かな自然の中でのびのびと育ちました。

 この時代、世間全体が豊かではなく、子どもも農業の手伝いをする時代でしたから、兄や姉たちは学校が休みのときに家のお手伝いをするため、なかなか兄弟そろって遊ぶ時間はありませんでした。でも、雨の日には手伝いもなくて、兄弟一緒に遊べるので、章にとっては雨の日はことさら楽しみでした。

兄たちと軒下(のきした)に集まっては、雨だれのところにかかとを入れてぐるっと回し、きれいなお皿を作る競争をやったり、夏にはそのくぼみに明かりを慕(した)って飛んできたカミアゲムシをすくい上げては、コップに入れて集めたりなど身近な自然を思う存分楽しんでいました。

 ものを作ることも大好きで、お蕎麦(そば)やうどんを作る時になると、お母さんのそばに行き、粉を練って作るその切れ端をもらい、今でいうところの粘土細工のようにチョウチョやカエルを形作り、棒に刺して囲炉裏(いろり)で焼いておやつ代わりにして食べていました。

貧しいながらも、とても牧歌(ぼっか)的な日々を過ごしていました。

章と折り紙との初めての出会いは、4歳の頃でした。近所のお姉さんが新聞紙で舟を折って、章にプレゼントしてくれたのです。

意気揚々(ようよう)と家に持ち帰ったのですが、兄たちと舟の奪い合いなり、終いに舟は壊れてしまいました。章は悔しくて、何とか元に戻そうと、その晩一生懸命折り直しました。でも、上手くいかなかったのです。

 しかし、このことで章は一枚の紙から形作られる創造の世界に興味を抱くようになりました。

それからは、雨の日になると、仲直りした兄や従兄弟(いとこ)たちと、雨戸を少し開けて、薄明かりの縁側で新聞を切っては、いろいろ折ってもらったり、それをまねて折ったりするようになりました。

 章は、豊かな幼年期を経て、家からほど近い上三川尋常(じんじょう)高等小学校に通うようになりました。

学校に行く途中では、家でとれた牛乳を、近くの家々に届けてから小学校へ行くのが日課でした。

当時の上三川小学校は、新しい時代を先取りした自由教育の気運に満ちあふれていました。どの教科も好きでしたが、特に「手工科」の時間がお気に入りでした。「手工科」は文字通り手先を使って工作をする科目で、ヒゴや粘土、石膏(せっこう)、折り紙などを細工してものを形作ることを学ぶ教科です。

紙はまだ高価な時代でしたから、章は先生から配られる美濃紙(みのがみ)や染め和紙を、折っては形を作り、また開いては違う形を作りと、何度も何度も繰り返し使っていました。この学習から、土や竹や紙といった自然の素材が、手を通して人為(じんい)の形へと生まれ変わっていく造形の奥深さに、章は夢中になりました。

 

 

 2 激動の青年期

 

 1924年(大正13年)、章は13歳になりました。実家が貧しかったこともあって、小学校を卒業し、姉の嫁ぎ先である東京は虎ノ門の洋服店に奉公に出ました。身には、身の回りのものと折り紙用紙を入れた柳行李(やなぎこおり)一つでした。

奉公先は理解のある家で、章は、奉公の傍(かたわ)ら、数寄屋橋(すきやばし)にある泰明(たいめい)実業補習学校の夜学に通わせてもらいました。学校では、学問の大切さ、素晴らしさを改めて知りましたが、その間も折り紙用紙は肌身離さず、暇を見つけては折り続けていました。

 しばらくして、章は実家の生活が困窮(こんきゅう)したこともあり、16歳で第二の奉公先となる大森の酒屋に勤めることになりました。

章自身も、奉公でもらったお金はほとんど実家に送るような貧しい生活を送っていましたが、よく働き、主人や得意先に可愛がられていました。

お得意先には学校の先生や知識人の方などもいて、そういった方に家の中に招き入れられ、時間を忘れて話をうかがったり、章の勉強好きを知った方からは哲学入門や概論の本などを貸してもいただきました。

ある日訪れた家で、床の間に「月を蹴(け)る鍾馗(しょうき)様」の掛け軸を見かけ、時間を忘れてその絵に見入っていました。すると、章は家に帰ってからその掛け軸を思い浮かべながら、紙で今見てきたお月様や鍾馗様を、レリーフ的なものに創り上げていきました。章の折り紙への愛情は益々深まるばかりです。

 

 

 

 

 1932年(昭和7年)、章は21歳になり鉄工所で働くようになりました。前年には中国との争いが始まり、不穏な空気が国全体を覆(おお)っていました。そしてとうとう戦争に入ると、少年たちの労働力も必要になったことから、多くの少年が章の勤める鉄工所で働くことになりました。

章は、少年たちの教育係と彼らが住む寄宿所の監督を務めるよう命じられました。彼らが仕事に馴染(なじ)むことができるよう、時には、金物でおもちゃを一緒に作って遊ぶなどしていました。遊びとはいえ、グラインダーや機械のこぎり、ヤスリがけ、と鉄工所の仕事の基本技術が入っているので、少年たちは次第に仕事に興味を持っていきました。

 

 ところが、ようやく機械が使えるようになっても、少年たちは設計図の青写真を読めないので、失敗作が続出しました。それは、設計図を読むのに必要な立体幾何(きか)の知識をもった子がほとんどいなかったからです。

そこで章は、「折り紙で少年たちに幾何学を教えられないか。」と考え、所長に提案をしました。所長の快い賛同を得て、夜宿舎に帰ってからの授業が早速行われることになりました。少年たちは皆、食い入るように章の手元を見つめながら、新しいことを知る喜びで熱心に学び取ろうとしていました。

 

 

 

章は、改めて教育の大切さを知り、自らもさらに学びを深めたいとの思いを強くしました。それから、文部省の先生方に手紙を出し続け、とうとう手工科の本をたくさん出していた高名な先生にたどり着きました。章は、忙しい合間を縫(ぬ)って、講義に耳を傾け、習ったことを紙に書き連ねました。

このとき得たつてを頼りに、その後、様々な先生を訪ね歩き、冶金(やきん)学や人間工学、またセザンヌの絵画理論についても学ぶことができました。章の折り紙に対する見方はこれまでよりも奥深くなり、折り紙をより本格的に研究していくようになりました。しかも、創作した折り紙ができあがるたびに作品を知人に送り、自分で新たに考えた折り方の解説などを喜々として行うのでした。

 

 しかし、鉄工所勤めの無理がたたったのか、章は病にかかり、郷里の栃木県にもどることになってしまったのです。1941年(昭和16年)のことです。

一年ほど休養しなければなりませんでしたが、その間には、東京で得た多くの知人を通じ本多功(ほんだいさお)とも親交を重ねるようになりました。本多は、海外でも折り紙作者として高名な方で、その本多から自身が著す本に「吉澤章さんの作品も使わせて欲しい」という依頼を受けることになったのでした。章は、ヨット、孔雀、六角花形、組み合わせ菱形などの創作折り紙を提供し、これらが1944年に出版された本多功の著書「ヲリガミ手工」でも紹介されました。

 

 

 体も癒(い)え、体調も戻ってきたのですが、ほどなく章は軍に召集され、それから一年近く医療部隊の一員として中国に赴(おもむ)くこととなりました。

やがて、終戦を迎える少し前に軍役(ぐんえき)を終えてからは、栃木県の南那須に住居を構え、佃煮(つくだに)の行商で生計を立てながら、時間の空いたときには創作折り紙に没頭する日々を過ごしていました。

また、時には近所の子どもたちを連れて山歩きをするなどもしていたようです。木々の梢(こずえ)の間を四十雀(しじゅうから)、山雀(やまがら)、小雀(こがら)など多くの小鳥が飛び交う様子を見て、折り紙で形を作るだけでなく「盆景(ぼんけい)」のように折り紙と景色の融合した世界を構築したいという思いが募りました。章は四十になり「これからは折り紙一本で生活していこう。」と決心しました。

 

 3 飛躍の糸口

 

 1950年(昭和25年)、章に大きな転機が訪れました。戦後の教育界では、民主主義のもと、創造性が重視されるようになっていました。そんな折り、章が取り組んできた創作折り紙の存在が栃木県教員組合の中で話題に上ったのです。すると教員組合が中心となって、章を講師とした県内での大規模な講習会が実施されることとなりました。

 

教育的美術造形としての折り紙の発表です。その講習会を見た人が仲介し、当時「アサヒグラフ」の編集長だった、劇作家の飯沢匡(いいざわただす)に会うこととなりました。

でも、これまで貧しい生活をしていた章は、面談の場にもみすぼらしい身なりで出かけざるを得ませんでした。飯沢に会うなり、

「こんな恰好(かっこう)で申し訳ありませんが、これしか着るものがないんです。でもわたしは折り紙を折らなければならないので、どうかお許しください。」

 丁寧(ていねい)に謝る章の真摯(しんし)な態度と人柄に、飯沢は感動を覚え、折り紙に対する章の情熱をひしひしと感じるのでした。

章が持参した作品の数々から、既成の折り紙とはまったく違ったその素晴らしさを感じ取った飯沢は、章にアサヒグラフに掲載する干支(えと)の十二体の動物の創作を依頼することとなります。章は、この申し出を受け、仕事がしやすい環境の東京に住まいを移して、昼夜を問わず作品を完成させるため折り紙づくりに取り組みました。

 

そしてとうとう作品が完成し、19521月号の「アサヒグラフ」に章の作品は掲載されたのです。これにより、吉澤章の名は一躍脚光(いちやくきゃっこう)を浴びることとなりました。その後も飯沢は何かと章の力になり、東京銀座のギャラリーでは日本で初めての吉澤章の展覧会が開催されました。

 

 

 

 1954年(昭和29年)、ユネスコ主催(しゅさい)の美術工芸教育国際会議では、日本の伝承折り紙は模倣であり、学ぶ価値の少ないものと批判を受けていました。章はその会議に参加し、自身の創作折り紙を席上で実演しました。章の手から生まれる創造性あふれる作品たちは、参加した人々に感動を与え、折り紙のもつ創造性を世界各国に知らしめたのです。章は、

「文部省の先生方が私の出席を勧めてくれたんです。電車賃もない時代で、製図用のコンパスを質に入れて会議場に通ったものです。」

と、このときのことを語っています。

 同じ年には初めての著書「新らしいおり紙藝術(げいじゅつ)」を刊行(かんこう)しました。

 

 

この本で示された点線と矢印を使用した折り方の図(折り紙の折り方と折り方の全行程を表した図)の表記法は、現在も国際的な標準となっており、たいへん画期的な本でありました。

 

 

この本の中で章は、「この心ひかれる折り紙という芸術を通して世界の平和を確立する。」と自分の信念を記しました。章はそれまで自身が主催していた「おりがみ友の会」を、折り紙の世界的普及を願った「国際折り紙研究会」として新たに設立し、自らの思いの実現に向け進んでいこうと決意を固めました。

 

4 レグマンとの出会い

 

 1953年(昭和28年)に、アメリカの民俗学者であり折り紙研究家のガーション・レグマンから章のもとに、「『カノマド』という日本の古書を探して欲しい。」という依頼が舞い込みました。章はレグマンの申し出を受け、この後「カノマド」の所在をめぐって日本中を探すこととなります。実際、探し始めてから約十年の後「カノマド」は「かやら草」として無事発見されることになりますが、このレグマンとの出会いや交流が、章にとっては国際的にも大きな飛躍をもたらしました。

 余談になりますが、章はレグマンと何十通もの手紙や作品のやりとりをしました。章の生活費のほとんどが、こうした切手代や郵便料金に化けてしまうほどでしたから、生活は苦しいままでした。

 

 

 

レグマンは、章の創作活動を支援するため、時折海外から章に資金援助を行う一方、レグマンの元に送られてくる創造性あふれる作品を見たり、さらに銀座で行われた章の展覧会の成功を聞いたりする中、海外で章の創作折り紙の展覧会を開催できたらどんなに素晴らしいだろう、と考えました。

 レグマンの尽力もあり、1955年(昭和30年)オランダのアムステルダム市立美術館で、章の創作折り紙の展覧会が一ヶ月間にわたって開催されることになりました。

当時、第二次世界大戦の敗戦国である日本の立場は、国際的にも良いものではありませんでしたが、この展覧会で見せた動物や人物の精巧な作りは造形美術として高く評価され、多くの海外の方々に喜ばれました。

そして、この様子はメディアを通じて欧州や北米、南米に瞬(またたく)く間に発信されることとなりました。この時の現地の状況を見た当時の在オランダ大使の岡本季正(おかもとすえまさ)は、章に展覧会で受けた感動と喜びを綴つづった礼状を送りました。同時に政府には、吉澤章の展覧会が戦争によってもたらされた日本への負の感情を和らげ、オランダと日本の良好な関係を育むのに役立ったと報告をしました。

 

 オランダでの展覧会の成功により、一気にヨーロッパや北米、南米の折り紙作家と章との交流が広がりました。「折り紙」が「ORIGAMI」として飛躍する大きな第一歩でした。その中には、後のイギリスORIGAMI協会の会長となるロバート・ハービンやアメリカORIGAMI協会を創設するリリアン・オッペンハイマーも含まれていました。彼女はこの記事に触発(しょくはつ)され、日本にいる章を訪ね、アメリカでの展覧会の開催を申し出ることになります。

 

5 世界へ羽ばたく

 

 1956年(昭和31年)、章は菊川喜代(きよ)と結婚しました。この後、章の名が広まるにつれ、多くの国々から招聘(しょうへい)を受けたり、多くの国の人たちと連絡や折衝(せっしょう)をしたりしなければならなくなります。章が折り紙創作に力を注げるよう、いつも喜代夫人が支え続けました。章と喜代夫人は二人三脚でこれからの時代を駆け抜けていくことになります。

 オランダでの展覧会の活躍を伝え聞いた当時外務省課長の伊達邦美(だてくによし)から、章のもとに、海外での折り紙を通じた文化交流の話が持ちかけられました。国は、章の生み出す作品が新たな造形美術として世界と日本との架け橋になると期待したのです。

 

 季刊「民俗学」に、章は次のように言葉を残しています。

「オランダのアムステルダム市立美術館において、前から文通のあった民俗学者G・レグマン氏と親日家のF・チコチン氏のご尽力により、私の折り紙の展覧会が一ヶ月間開催されたのは1955年のことでした。

この展覧会のニュースはヨーロッパはもとより、南北アメリカに広く反響を呼び、その後ニューヨークのクーパーユニオン美術館でも『幾何学と折り紙の装飾的な試み』と題して、私の作品を主に、世界の折り紙愛好家の作品の展覧会が催されました。それまでスペインのウナムノ折り紙がヨーロッパ方面に若干行われておりましたが、画期的な紙造形として、私の折り紙が世界から迎えられるようになってきました。

こうして創作と研究に地味な歩みを続け、いろいろ要望にお応えして作品を提供し、資料を送ったりしていましたが、その折り紙を海外の人々に直接お伝えする機会が与えられました。外務省や国際交流基金から、新しい美術の分野としての折り紙を広め、文化交流に役立てるよう、数次にわたって世界各国に派遣(はけん)されました。日本の伝承折り紙の折り鶴や奴(やっこ)さんでは何もわざわざ派遣することはないので、あなたの新しい折り紙を紹介して欲しいと言っていただきました。

初めて私が派遣された国はオーストラリア、ニュージーランド、インドネシアでした。広大な緑の広がりと、ヒツジやウシの群れを見ながら降り立ったシドニーで、その日のうちに予定された私の外国での最初の講演は、師範(しはん)学校で行われました。折り方の理論と折り方の実習を、学生は熱心に受講してくれました。紙をひと折りすることで、たちまち親しみが湧くのは折り紙の持つ不思議な魅力です。

そこには私の好きな動物がたくさんいます。カンガルーやエミュー、コアラ、カモノハシ、それにヒツジやウシ、ウマなどを折って大変歓迎され、テレビの出演には折り紙の動物たちが大うつしにされました。

ニュージーランドでは空港に迎えてくださったジャパン・ソサエティの会長から、コインにデザインされているキウイを折り紙でできないかと言われて、即座に創作したところ、早速翌朝の新聞に紹介されました。

ハンディキャップ・センターでは子どもたちの部屋に案内されたところ、付き添いの先生が、寝たきりの子どもたちにもいろ紙を配られました。その子どもたちは片方の手と口を使って、ひと折り折るのになかなか大変でした。すると、そばにいた子どもがつっと歩み寄って、自分の片手を添えて二人で一つの紙を折ってゆきました。それはたどたどしいものですが、ごく自然に助け合っている姿に、例えようもない尊い驚きを感じました。」

 国の派遣を契機(けいき)に諸外国からの招聘も相次ぎ、章は三十年間でオセアニア、欧州、アジアの四十数カ国を回りました。その間も自らの新たな創作折り紙の研究を続け、同時に「折り紙読とくほん本」や「たのしいおりがみ」を始め多くの著書を刊行しました。そして遂ついには、1992年(平成4年)に、スペインのセビリアで開催される万国博覧会での日本政府の出品作として、章に白羽の矢が立ったのです。

 章は、日本政府館に「日本の四季」という作品を出品しました。日本の原風景をテーマに表現した折り紙の作品総数は千点にも及び、多くの来場者の感動を呼びました。入館者アンケートでも、参加百三十カ国中で、圧倒的一位という人気でした。

 章は、このセビリア万国博覧会の席上、集まった人々に次のように語りかけました。

「折り紙は一枚の紙の面と線の屈折によって表現する造形の詩です。私の折り紙は自然物を写実、または具象形として、心象を抽象的に表現します。それは遊びのような易しい折り方から、格調の高い芸術作品にもなります。このセビリア万博に、日本古来の文化『生なり』の表現を日本館展示の意図により、四季の原風景を折り紙で構成しました。私の心の中に承(うけたまわ)り継がれて来た感性から、独創的な作品が生まれました。情緒豊かな折り紙にもユニークな発想の根元が秘められ、未来の科学や技術に役立つことでしょう。世界の皆様に折り紙によって展開される日本の四季を楽しんで頂きたいと思います。」

 

6 Origami God

 

 章は、創作折り紙の第一人者として世界中の折り紙界から、「Origami God」「Masters of Origami」と称されるようになりました。その功績は日本でも高く評価され、1983年(昭和58年)には折り紙による文化普及に尽くしたことで勲五等雙光旭日章(くんごとうきょくじつしょう)を叙勲(じょくん)し、1986年(昭和61年)には外務大臣賞を受賞することになりました。

 2003年(平成15)924日、章は念願叶(かな)って生まれ故郷の上三川町で作品展を開くことになりました。会場は約八百点もの作品で埋め尽くされ、多くの観客が連日押し寄せました。章は新聞のインタビューに、「生まれ故郷で作品展を開きたかった。うれしい。」と、目に涙をためて語りました。

 

 2005年(平成17年)314日、章は奇しくもこの世に生を受けたのと同じ日に、折り紙に全てを捧げた生涯の幕を閉じました。94歳でした。

 章の訃報(ふほう)は、瞬時に世界に打電されました。日本のメディアはもちろんのこと、海外の新聞も章への哀悼(あいとう)と偉大な足跡の記事を一面を使って取り上げました。

 章の死後、妻の喜代夫人、また喜代夫人の妹、菊川多美子(きくかわたみこ)を中心とした国際折り紙研究会のメンバーは、吉澤創作折り紙を多くの人々に伝承したいと考え、国内はもとよりオーストラリアやドイツ、アメリカ、イスラエルなどで積極的に講演会や講習会を実施しました。今もその活動は続けられています。また、2012年の314日には、章の生誕百一年を記念し、Googleのホームページロゴが折り紙バージョンとなりました。

 「この心ひかれる折り紙という芸術を通して世界の平和を確立する。」そう語った章の夢は、今もまだ続いています。

   

1911年(明治44年) 栃木県に生まれる。幼少の頃より折り紙に興味を持つ。

1926年(大正15年) 東京泰明実業補習学校卒業

1938年(昭和13年) 鉄工所に働きながら、本格的に折り紙の研究に入る

1950年(昭和25年) 教育的な折り紙の発表を契機として、「アサヒグラフ」掲載を皮切りに新聞、雑誌、展覧会、講習会にて折り紙を社会的に広める

1953年(昭和28年) G・レグマン氏から「カノマド」という折り紙の古典を探す依頼がある

1954年(昭和29年) 国際折り紙研究会創設。ユネスコ主催の学術工芸教育国際研究会議に出席。著書「新らしいおり紙藝術」も刊行

1955年(昭和30年) オランダのアムステルダム市立美術館において個展。画期的な造形美術として世界から注目される。その後、海外各国及び国内各地で展覧会を開催。

1957年(昭和32年) 著書「折り紙読本」を刊行。

1963年(昭和38年) 著書「たのしいおりがみ」が毎日出版文化賞を受賞。

1964年(昭和39年) 「何哉等草」の原本が朝日新聞大阪本社にて発見される。

1966年(昭和41年)から1991

外務省及び国際交流基金から折り紙の講師として派遣され、世界数十カ国を訪問。国際交流に務める。現在世界各国にある折り紙の会設立の基礎を成す。

1971年(昭和46年) モービル児童文化賞受賞

1983年(昭和58年) 折り紙による文化普及に尽くしたことにより勲五等雙光旭日章を叙勲。

1984年(昭和59年) パリと東京において朝日新聞社とピエール・カルダン氏主催による創作折り紙個展開催。

1986年(昭和61年) 折り紙とその背景としての日本文化紹介に対し外務大臣賞を受賞。

1987年(昭和62年) イタリアのミラノ市の招聘により作品展。

1992年(平成4年) スペインのセビリア万国博覧会で日本政府館に原風景「日本の四季」を

折り紙作品によって展示。

1993年(平成5年) フランスのパリ市・サンフロランタン市で特別展覧会を開催。

1995年から1998年 ドイツ3都市、アメリカ各地、スペインで作品展、講演。

2000年(平成12年) 国際交流基金によりオマーンへ派遣され、作品展と講演を開催。

2003年(平成15年) 上三川町で「吉澤章創作折り紙展」開催。

2005年(平成17年) 没 死去

2005年(平成17年) オーストリアのザルツブルクで「Masters Origami展」出展。妻、喜代氏特別講演。

2007年(平成19年) ドイツのハンブルク美術館での招待、吉澤章作品出展。ニューヨーク「Origami USAコンベンション」で妻、喜代氏講演。イスラエルのティコティン博物館で展覧会。

 

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