2 激動の青年期
1924年(大正13年)、章は13歳になりました。実家が貧しかったこともあって、小学校を卒業し、姉の嫁ぎ先である東京は虎ノ門の洋服店に奉公に出ました。身には、身の回りのものと折り紙用紙を入れた柳行李(やなぎこおり)一つでした。
奉公先は理解のある家で、章は、奉公の傍(かたわ)ら、数寄屋橋(すきやばし)にある泰明(たいめい)実業補習学校の夜学に通わせてもらいました。学校では、学問の大切さ、素晴らしさを改めて知りましたが、その間も折り紙用紙は肌身離さず、暇を見つけては折り続けていました。
しばらくして、章は実家の生活が困窮(こんきゅう)したこともあり、16歳で第二の奉公先となる大森の酒屋に勤めることになりました。
章自身も、奉公でもらったお金はほとんど実家に送るような貧しい生活を送っていましたが、よく働き、主人や得意先に可愛がられていました。
お得意先には学校の先生や知識人の方などもいて、そういった方に家の中に招き入れられ、時間を忘れて話をうかがったり、章の勉強好きを知った方からは哲学入門や概論の本などを貸してもいただきました。
ある日訪れた家で、床の間に「月を蹴(け)る鍾馗(しょうき)様」の掛け軸を見かけ、時間を忘れてその絵に見入っていました。すると、章は家に帰ってからその掛け軸を思い浮かべながら、紙で今見てきたお月様や鍾馗様を、レリーフ的なものに創り上げていきました。章の折り紙への愛情は益々深まるばかりです。
1932年(昭和7年)、章は21歳になり鉄工所で働くようになりました。前年には中国との争いが始まり、不穏な空気が国全体を覆(おお)っていました。そしてとうとう戦争に入ると、少年たちの労働力も必要になったことから、多くの少年が章の勤める鉄工所で働くことになりました。
章は、少年たちの教育係と彼らが住む寄宿所の監督を務めるよう命じられました。彼らが仕事に馴染(なじ)むことができるよう、時には、金物でおもちゃを一緒に作って遊ぶなどしていました。遊びとはいえ、グラインダーや機械のこぎり、ヤスリがけ、と鉄工所の仕事の基本技術が入っているので、少年たちは次第に仕事に興味を持っていきました。
ところが、ようやく機械が使えるようになっても、少年たちは設計図の青写真を読めないので、失敗作が続出しました。それは、設計図を読むのに必要な立体幾何(きか)の知識をもった子がほとんどいなかったからです。
そこで章は、「折り紙で少年たちに幾何学を教えられないか。」と考え、所長に提案をしました。所長の快い賛同を得て、夜宿舎に帰ってからの授業が早速行われることになりました。少年たちは皆、食い入るように章の手元を見つめながら、新しいことを知る喜びで熱心に学び取ろうとしていました。
章は、改めて教育の大切さを知り、自らもさらに学びを深めたいとの思いを強くしました。それから、文部省の先生方に手紙を出し続け、とうとう手工科の本をたくさん出していた高名な先生にたどり着きました。章は、忙しい合間を縫(ぬ)って、講義に耳を傾け、習ったことを紙に書き連ねました。
このとき得たつてを頼りに、その後、様々な先生を訪ね歩き、冶金(やきん)学や人間工学、またセザンヌの絵画理論についても学ぶことができました。章の折り紙に対する見方はこれまでよりも奥深くなり、折り紙をより本格的に研究していくようになりました。しかも、創作した折り紙ができあがるたびに作品を知人に送り、自分で新たに考えた折り方の解説などを喜々として行うのでした。
しかし、鉄工所勤めの無理がたたったのか、章は病にかかり、郷里の栃木県にもどることになってしまったのです。1941年(昭和16年)のことです。
一年ほど休養しなければなりませんでしたが、その間には、東京で得た多くの知人を通じ本多功(ほんだいさお)とも親交を重ねるようになりました。本多は、海外でも折り紙作者として高名な方で、その本多から自身が著す本に「吉澤章さんの作品も使わせて欲しい」という依頼を受けることになったのでした。章は、ヨット、孔雀、六角花形、組み合わせ菱形などの創作折り紙を提供し、これらが1944年に出版された本多功の著書「ヲリガミ手工」でも紹介されました。
体も癒(い)え、体調も戻ってきたのですが、ほどなく章は軍に召集され、それから一年近く医療部隊の一員として中国に赴(おもむ)くこととなりました。
やがて、終戦を迎える少し前に軍役(ぐんえき)を終えてからは、栃木県の南那須に住居を構え、佃煮(つくだに)の行商で生計を立てながら、時間の空いたときには創作折り紙に没頭する日々を過ごしていました。
また、時には近所の子どもたちを連れて山歩きをするなどもしていたようです。木々の梢(こずえ)の間を四十雀(しじゅうから)、山雀(やまがら)、小雀(こがら)など多くの小鳥が飛び交う様子を見て、折り紙で形を作るだけでなく「盆景(ぼんけい)」のように折り紙と景色の融合した世界を構築したいという思いが募りました。章は四十になり「これからは折り紙一本で生活していこう。」と決心しました。